引きうける生き方 〜社員育成の基本・覚悟はできているのか
沖縄県うるま市介護老人施設「いづみ苑」苑長 安田 未知子 氏
去る7月12日、定例の弊社お客様向け勉強会を開催しました。
講師に、沖縄県うるま市の介護老人施設の苑長、安田未知子氏をお招きしました。
1944年安田さんは沖縄戦の戦局が激しくなる中、沖縄県立第一高等女学校に入学、すぐにひめゆり部隊の伝令役として太平洋戦争に参加されました。終戦後の1948年沖縄初の女性英語教師として具志川中学校に赴任。その後、担任のクラスにいた恵まれない混血児を、累計で43名自宅で面倒をみて卒業させました。その波乱万丈の人生は、2014年6月WAVE出版から『引きうける生き方』として出版されました。当日は、そんな安田さんの戦争体験、大病のこと、そして関わった生徒たちのエピソードをお話頂きました。レポートにまとめました。
■ 講 演
【プロフィール~戦争体験・大病からの克服~教師として・現在~】
昭和6年に東京で生まれ、8歳で両親の故郷である沖縄に渡る。1944年沖縄県立第一高等女学校に入学。その年には戦火が激しくなり学校長と牛島中将(沖縄戦で第32軍を指揮していた司令官)の伝令役として太平洋戦争に参加。校長の命で県外の師範学校に進学していた上級生に沖縄へ戻るよう訴える手紙を書く。手紙により戻った40名がひめゆり学徒隊となって全員命を落とす。この自責の念と教育の恐ろしさから、教師になることを躊躇する。しかし母親からの「子供は宝もの。教師は神様から宝ものを預かる尊い仕事。大切なことを教える、すばらしい仕事なのよ」という言葉に気持ちを動かされ、「教師志望だった先輩たちができなかったことを私がやらないといけないんだ」と沖縄初の女性英語教官となる。
我が子5人の他に、貧しく教育やしつけが行き届かない子ども総勢43名を、在任中自宅などで世話をし私費で進学させた。43名は、父親が米兵で母親がシングルマザーとして育てていた子供です。また、在職中の27才~57才の30年間は、リウマチ・ガン・8ヶ月間意識不明等、大病との戦いだった。しかし、沖縄の薬草服用や食事を見直し、自らの力で病気を克服。現在はすこぶる健康体で生活している。
定年後は弟の経営する病院の経営に携わり、介護老人保健施設の苑長を努める。施設内にハーブ園を設け、無農薬ハーブの栽培を通じ障がい者の就労にも結び付けている。現在は、スペシャルオリンピックスの沖縄支部を立ち上げ会長を務めている。全国の経営者の相談や講演、セミナー活動も行っている。助けが必要な人に寄り添う姿から、“沖縄のマザーテレサ”とも呼ばれている。
【生徒たちとのエピソード~誰かがやらなければならないことなら、私がやりましょう~】
安田先生が教師となり担任を持った沖縄では、母親が米兵との間に産んだ混血児が生徒としてクラスにいることがままありました。そんな生徒たちの多くが手のつけられない不良だったり、学校からはやっかい者扱いされていました。
安田先生は、教員時代に貧しく教育やしつけが行き届かない学校から見放された子どもたちに、住まいと勉強の場を与えて巣立たせました。その数は43人にのぼります。その話のなかから4人のエピソードを抜粋して紹介します。
ゆきおくん
安田先生が小学校へ赴任して、2年生の担任になった時に出会った黒人とのハーフの子がゆきおくんです。父親はおらず、母親はお金だけ置きに時々家に帰ってくるという家庭環境で、彼は肺を患っていたおじいさんとおばあさんの2人の面倒をみながら生活をしていました。そのためひどく貧しい暮らしをしており、クラスで栽培していたヘチマや朝顔をひっこ抜いて野菜を植え、自宅に持ちかえるというようなこともありました。高校まで出すつもりで安田先生は家に引き取りましたが、家のものを持ち出し質屋で金に換え菓子を買ったり、先生の子ども2人を連れて遊びに行き帰ってこず、海岸端の舟のなかで見つかるなど手のかかる子だったそうです。そんなゆきおくんも小学生のころ隣のクラスのゆみこという女の子に恋をしました。授業中に窓を飛び越えて隣の教室のゆみこにラブレターを渡しに行くという純情な一面も持ち合わせた子どもでした。このエピソードは絵本(ゆきおくんの初恋、WAVE出版)にもなっています。
また、車を触ることが大好きで、学校の先生たちの車を無断で動かしては叱られていました。卒業後、自動車修理工になるという夢をかなえましたが、働き始めてすぐに車の下敷きになり大ケガをしてしまいます。けがの回復後、集団就職で東京に行き、その後40年近く安田先生とゆきおくんは会うことがありませんでした。先生があと1週間で定年退職という時、学校につなぎを着た小柄な男性がやってきました。安田先生もまさかと思ったそうですが、それは大人になったゆきおくんでした。彼は沖縄の友だちを作業着のまま羽田空港に迎えに行った時、その友だちから「教師って定年退職した途端に死ぬ人が多い。安田先生もあと一週間で退職だ」と聞いて、心配でいてもたってもいられず作業着のまま羽田から飛行機に飛び乗って沖縄に安田先生を訪ねてきたのです。ゆきおくんは修理工場の社長になっていました。元気な安田先生の姿を見たゆきおくんは「ゆみこよりかわいい子をお嫁さんにしたよ」と言って東京に帰ったそうです。
さだこさん
知的障がいのある両親のもとに生まれ、母親は行方知れずで叔母さんに面倒を見てもらっていました。高校への進学を希望しましたが、叔母さんは反対していました。さだこさんが就職すれば月30ドルの収入を得ることができ、それをあてにしていたからです。そのため、安田先生は自分の25ドルの給与のうち20ドルをさだこさんの叔母さんに毎月渡して、そのうえ面倒をみる約束をしたのです。その後、さだこさんは琉球大学に進学しましたが、先生の叔母さんへの支払いはさだこさんが大学を卒業するまで続きました。叔母さんへの支払いの件は、さだこさんにはずっと秘密にしていましたが、安田先生の定年退職のお祝いの時に初めて当時の事情を話しました。さだこさんは肩を震わせて泣いたそうです。現在さだこさんは、お金のない学生たちに安く部屋を貸すために賃貸マンションを沖縄で経営しています。自分が困った時に人から助けられて勉強ができた、今度は自分が人を助けたいという思いからだそうです。
れいこさん
彼女も黒人とのハーフの子どもでした。ハーフであるという事から学校でいじめにあっていました。今ではハーフのタレントやモデルが多く活躍しており、ハーフであることはかっこいいというイメージになっていますが、戦後ではいじめの対象になってしまうこともあったのです。安田先生は彼女にいじめに負けないよう、もともと得意な陸上と英語の特訓をすることにしました。しかし、家の手伝いで毎日卵を200個売らなければ勉強を始められなかったので、安田先生も一緒になって卵を売り歩きました。英語の成績も上がってきましたが、れいこさんは中学3年生の時に経済的理由から進学をあきらめると言い出しました。れいこさんは家庭を思っての決意でしたが、安田先生はあきらめきれず駆けずり回り、なんとか奨学金をとりつけて高校へ進学させることができました。高校では陸上で活躍し、大学卒業後はアメリカの大学院でスポーツの勉強をしました。今は病院で健康体操の指導員をしているそうです。
たかくん
金髪でアロハシャツにステテコ、下駄履きという、見るからに不良といったいでたちの生徒がたかくんでした。授業中に帰ると席を立ったので、未知子先生は彼を叱りつけ投げ飛ばしました。その後、たかくんが暴走族の仲間を集め学校に仕返しに。運動場をバイクで荒らし、先生たちの車を傷つけました。たかくんは暴力団の一員だったのです。未知子先生はすぐ暴力団事務所に1人でのり込み、組長に土下座。授業に出て欲しいことやたかくんを投げ飛ばした理由を話しました。すると、組長が「今すぐ車を止めてこい」と組員に命令してくれました。また、帰り際「バカどもがまた来たら、これで殴りな」と木刀まで安田先生に渡してくれたそうです。しかし、たかくんが学校に来たのはその1度きりでした。その後、たかくんは探しても見つからず、仲間からは殺されているか、売られているかだと言われて安田先生も亡くなったものだとばかり思っていました。40年後、ある会合でたかくんから声をかけられて、びっくりしたそうです。たった1度学校で会っただけでも先生を覚えていたのです。というのも、たかくんを守るために1人で暴力団事務所に乗り込ん
だ安田先生はすごい姉さんだと、その世界で話題になったと、たかくんは言っていたそうです。彼は、今工事関係の仕事についています。
【「一人(ちゅい)たれいだれい」(一人でできないなら支えあおう)】
安田先生がこれだけ周りの人のために尽くせる背景の1つに、ご両親の存在があります。子どものころ右と左がなぜあるのかをたずねると、「右と左は両側にいる人と手をつないで歩くためにあるんだよ。自分だけ先を歩いてしまったら、一人ぼっちになってしまう。人は一人じゃ生きられないんだよ」と言われたことがあるそうです。また、大きくなってからこの「右と左の話」を「ひとりがみんなを助けることはできないけど、みんなが自分の両隣にいる人を支えられれば、結局はみんなが助かるんだ」とも教えられたそうです。これは安田先生が教師時代に何度も思い返すことになった話でした。
問題のある子どもたち一人一人に向き合っていた安田先生は、教師時代一人一人を個別化指導するのが夢だったそうです。もっと柔軟性のある教育をしたいと考えているときに出会ったのが、モンテッソーリ教育でした。これは一人一人の自主性を尊重して育てるという教育法でした。
現在、経営されてる病院・介護老人保健施設でも個別化指導が行われています。個性を生かす、一人一人に合わせた教育・対応、学校での生徒に対してだけでなく、会社での部下や新入社員の指導にも通じるところがあります。
【まとめ~安田先生からのメッセージ~】
「人を育てるということは、社員も生徒も一緒です。あの時代だからできた、とか今の時代はそんなやり方は無理、と決め付けてはいけません。大事なことは『厳しさ』と『優しい真心』のバランスです。あなたは、一人でも部下がいればリーダーです。 経営者やリーダーは、相手がどうしたら受け入れてくれるのか、心を開いてくれるのか、最大の情熱をもって考え抜くことです。 ほったらかしはいけません。いつも『愛』ある心で関心を持つことです。リーダーや上司は、「引きうける覚悟」が必要なのです。忍耐も必要です。諦めてはいけません。辛くても『笑顔』で接してみてください。『笑顔』です。 相手がいつか『笑顔』で返してくれますから」
インサイト No.47
2016年9月30日